美智子様が皇室バッシングの火付け役?皇室が生んだ5つのターニングポイントとは…

こんにちは。『美智子様が皇室バッシングの火付け役?皇室が生んだ5つのターニングポイントとは』という内容でお届けいたします。平成の時代、 それまでの皇室とは違ったことが批判されることが多くなりそのキッカケは美智子様が作ったということが話題になっています。一体どういう事なのか、 見てみましょう。合わせて、 他にも4つの皇室報道の分岐点になったできごとについてご紹介します。
令和に代わってから、この5月で3年が経過しました。新型コロナウイルスの猛威が日本に影を落とす中、皇室で何が起こっているのか分かりづらくなっています。そんな中、 令和の皇室は平成で築いた在り方を引き継ぐ形で新たな元号を迎えました。私は平成の皇室に至るには5つの転換点が存在していると思います。平成の皇室がどのようなものだったのか、その5つに分けて考えてみましょう。
1、 即位の瞬間: 「昭和」 との違いは「おことば」 から示されていたまず初めに、 1989年の即位が一つ目の転換点といえるでしょう。昭和天皇の容体が悪化して以降、「自粛」 ムードが長い間日本を覆っていました。その自粛期間を経て即位した平成の天皇が、 初めての 「おことば」 を国民に向けて述べられたのは、1月9日の 「即位後朝見の儀」 のことでした。
そのおことばは、崩御をもっての即位だったこともあり、平成の天皇や皇后含め参列者の服装は皆黒色に染まっており、 沈痛な雰囲気が会場を覆っていた中で発せられたものでした。ただ、 戦前に行われていた昭和時代の朝見の儀で発せられたいわゆる 「勅語」 とは明確に異なる内容でした。 平成の天皇は昭和天皇の在り方について、 「どんな事があっても国民とともにあることを強く願っておりました」 としながら自身については 「国民の皆さんと日本国憲法を守り、 それに従って天皇として務め上げることを誓います」 と述へられました。
着目すべき点として、「国民とともにある」 という箇所が挙げられます。 象徴天皇としての立場をそう定めることで、 自らも国民を常に気にかける姿勢を提示したのです。そのためでしょうか、 陛下の 「おことば」 は「です·ます」 調で統一されており、聞いた誰もがわかるような、易しい言葉で組み立てられておりました。また、 国民とともにあることを強調した点も意味があるでしょう。
この言葉は、 まさしく国民への呼びかけであり、 この時の 「おことば」 は天皇は国民とともにあることを一貫して訴えていました。このおことばから、 平成の皇室の姿勢が方向づけられたと言えるでしょう。さらに注目された点として、 天皇が「日本国憲法を守る」 ことを強い思いで述べられたことです。
昭和から平成へ皇室が引き継がれる上で、伝統を重んじるのではなく、憲法に基づいて皇室のあり方が規定されることを天皇が明確にしたということです。 憲法を遵守することを強く押し出した平成の天皇のあり方は、 いわゆる護憲的な考えを持つ層からの熱烈な承認を受けることになります。
以上のような、平成の天皇が即位して以降の「おことば」 を含めた一連の振る舞いは報道機関だけでなく国民全体から賞賛されました。皇室が国民への門戸を開くような変化を受け、「開かれた皇室」 と評価されました。2、 雲仙普賢岳噴火:皇太子から天皇へ、 増大する影響力第二の転換点は、 1991年7月に起こった長崎県の雲仙·普賢岳噴火において被災地へお見舞いになられた件が挙げられるでしょう。前年から噴火の被害に見舞われていたことに、平成の天皇皇后両陛下は気にかけていたご様子でした。
そんな中、 被災地へお見舞いのための訪問が決まったのですが、その時点ではまだ被害の収束が見えない状況でした。そのような状況で天皇·皇后ともに被災地を見舞うのはかなり例外的な対応であり、 本人たちの見舞いへの強い思いが伺えます。その上、 お迎えの行事などは必要ないと本人たちよりお申し出があり、かなり簡略された形での訪問が実現しました。それはひとえに、 今もなお被害に苦しむ被災者へしわ寄せがいかないようにという思いからだったのでしょう。
このエピソードからも、 「国民とともにある」 と言うおことばへの強い意思を感じ取ることができます。被災地へ訪れている間、天皇皇后両陛下は仮設住宅や避難所を訪問しました。その際、 被災者一人一人の目線に立ち、床に膝をついてお話をされる様子がとても印象的だったといいます。 まだ皇太子だった時代の1986年、 伊豆大島三原山噴火が発生した際に避難先へ訪問した時にも、同じような対応をされていましたが、天皇という立場になられた今、影響の大きさは比べ物になりませんでした。
以降、 天皇皇后両陛下は、数多く起こる自然災害の被災地へ率先してお見舞いに向かい、被災者たちへ励ましのお言葉をかけました。天皇皇后両陛下は、 被災者の苦しみを分かち合うかのように時々被災者の手を取り、しっかりと見つめ、 一人一人と話し合い、励ましました。 そういった振る舞いは、平成の天皇らしさの軸となっていきます。3、 美智子皇后への批判:「皇室の変革」 と”反動”しかし、 天皇のこういった振る舞いは一概に全ての国民に受け入れられていませんでした。国民に寄り添いすぎることは、天皇の権威に影響を及ぼすのではという懸念から、 批判が噴出したのです。
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天皇に即位した後は、1995年の戦後50年の節目にも長崎·広島、 沖縄、 そして東京大空襲で亡くなった人々の遺骨が納められた東京都慰霊堂などを休みなく訪ね、 日本各地への異例の旅を続けました。また、 記者会見においても戦争について話題に取り上げることが増えました。そして、 8月15日に執り行われる戦没者追悼式では、 「ここに歴史を思い返し、 戦争の惨禍が2度と繰り返されないことを強く願い」 という表現を用いた 「おことば」 を述べられ、その次の年からも戦没者の追悼式で同様の表現を続けました。
さらに、 戦後60年の2005年になると、 アジア·太平洋戦争において激しい戦いが行われたサイパン島への訪問が現実のものとなりました。 天皇皇后両陛下の外国への訪問は、 通常その国から招かれる形で行われます。この訪問については天皇の意思で実施に至ったことからも、異例のケースだったことがわかります。
サイパンでは遺族会や戦友会の方々とお話をしたり、戦没者慰霊碑を訪問するなどしました。天皇自身の意思で、 自主的に戦争の記憶を掘り起こす取り組みを行なっていったのです。 こうした天皇の振る舞いは、 特に護憲派のような立場の人々に多大な影響をもたらしたと思われます。これまで、 こうした人々は天皇制に批判的な態度をとっていました。ところが、 安倍内閣の安全保障関連法案、集団的自衛権の問題を筆頭とする、 国内情勢·国際情勢の変化は、 護憲派が考える思想と乖離が生じ始めていました。
 

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