美智子さま「秋篠宮のDNA検査だけはしないように」“旧宮家復帰案”に肝を冷やされる。

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さて、1.皇族のDNA鑑定は必要か
先日の河野大臣発言で、いわゆる旧宮家の皇籍復帰」について、河野大臣のこのような発言が話題になりました。「確率的に突然変異が起きやすい。そうすると宮家の養子にしようといった方の血液かなんかとってきて、染色体の検査、遺伝子の検査をやったら変異があって、そこがずれていたらどうするんだ。
繋がっていないじゃないかという話になるかもしれない」これに関して、「旧宮家と今の皇室のDNA検査をして両者が男系で繋がっているかどうか科学的に明らかにするべきだ」という議論にも発展してしまっています。
確かに、日本の皇室は最低でも1500年は続いていますので、どこかの時代で天皇の側室や皇后がで密通をした可能性も否定できません。実際に、400年前の後陽成天皇の時代に当時の江戸幕府をも揺るがした宮中の大「不義密通」事件が起こっています。事件の名前は、“猪熊事件”。江戸時代初期の朝廷と幕府を震撼させた大事件でした。
2。江戸時代の朝廷を震撼させた猪熊事件
「猪熊事件」の主役となったのは、公家の四辻家に生まれ、勅命により「猪熊」の氏を与えられた公家の猪熊教利でした。猪熊は「天下無双とたたえられるほどの美男子で、教利は天皇近臣の1人として後陽成天皇に仕えていましたが、内侍所御神楽で和琴を奏でたり、天皇主催の和歌会に詠進したりする等、芸道にも通じていたそうです。
イケメンで文化レベルの高い様子から、『源氏物語』の光源氏や平安時代の在原業平にもたとえられ、また、当時流行した“傾奇者(かぶきもの)”の精神を汲んだ彼の髪型や帯の結び方は「猪熊様(いのくまよう)」と称され、京都の流行になるほどだったそうです。
しかし、かねてから女癖が悪く、人妻や宮廷に仕える女官にも手を出し「公家衆乱行随一」と称されていました。そして、慶長12年(1607年)2月に、天皇に侍る女官との密通が発覚し、激怒した後陽成天皇から勅勘(天皇からの勘当)を受けます。猪熊は京都から追放処分とされ、大坂に出奔しましたが、ほとぼりが冷めやらぬうちに、直ぐに京へ戻りました。その後も素行は修まらず、仲間の公卿を誘って自邸に女官を招いては、不義密通を重ね続けました。
猪熊の不敬な悪ノリに乗っかった公家は、多くいたそうで、中でも花山院忠長は、天皇の寵愛深い広橋局(大納言広橋兼勝の娘)にぞっこんになり、文通を始め、二人で逢瀬を重ねたといいます。その話を漏れ聞いた猪熊は、これ幸いとかねてから親しかった飛鳥井雅賢をはじめ、言葉巧みに他の公卿・女官をも誘い出し、様々な場所で乱交を重ねることとなりました。天皇に仕える立場の公家や天皇の側室候補の女官たちが大勢で、乱交パーティを開いていたということになるでしょう。
3。不義密通は天皇の周辺で起こりやすい
猪熊事件で、不貞公家の密通事件の一番の犠牲となったのは、他でもない後陽成天皇です。自分の部下が自分の女官(側室)と文字通りの乱痴気騒ぎを起こしていたわけですから、ショックも人一倍だったでしょう。ところで、後陽成天皇と聞いて、耳ざとい皆さまならお分かりかもしれませんが、そう、後陽成天皇はいわゆる「皇別摂家」の始祖にあたります。
後陽成天皇の第四皇子(1599年生)が近衛家に入って近衛信尋となり、第九皇子(1605年生)が一条家に養子に入って一条昭良となりました。これは、時期的に猪熊が京都でブイブイ言わせていた時期と重なります…近衛信尋も一条昭良も、記録上は密通のあった女官の子ではなく、後陽成天皇の女御(正妻)の異なっていますが、実際は分かりません。
もしかしたら、猪熊事件の主犯・猪熊教利や他の公家連中との不義密通で生まれた子供である可能性もあります。冒頭に「旧宮家のDNA検査が必要ではないか」という問題提起を述べましたが、猪熊事件たけなわのころの伏見宮家(旧宮家の祖先)は事件とは無関係に慎ましく過ごしていたことが記録から明らかに分かっています。
猪熊事件の例を見てみると、むしろ不義密通が起こりやすいのは、慎ましい宮家ではなく、権威の中心たる天皇の周辺とも言えるかもしれませんね。ちなみに、この猪熊事件、元宮内庁職員の小内誠一さんによると、「昭和34年に皇室入りした美智子さまがお妃教育で皇室の歴史を学んだ時に、一番驚き、また興味を示したのがこの猪熊事件だったらしいですね」たそうです。
小内さん曰く「源氏物語の時代から、不義密通/色恋沙汰は宮中の雅な文化っていうことなんですよ」とのこと貴重な古い文化が残る日本の皇室ですが、この文化だけは今に継がれないことを期待したいと思います。
4。美智子さまの重いお言葉
かつて上皇陛下は、平成の頃「ゆくゆくは愛子(内親王)に天皇になってほしい。だけど、自分も長く元気ではいられないだろうから、早く議論を進めてほしい」と側近に仰ったことは夙に知られる(奥野修司『天皇の憂鬱』新潮社、2019)。優秀で温和な愛子さまのお人柄を知ってのご発言たろう。さる宮内庁職員は、次のようにかつての経緯を思い出す。「平成の頃、当時の天皇陛下や美智子さまなどと皇位継承問題について何度も話し合いがもたれました。
美智子さまが『旧宮家復帰となれば、DNA検査をするのでしょうか?』と問われ、『そうなる可能性はあります』と答えました。さらに『どのように?』と質問いただきましたので、『その段階にならないと解りませんが、男系を維持するためには、皇統を受け継がれる秋篠宮殿下あるいは悠仁さまと、復帰される旧宮家の方との検査になると思います』と答えました。
すると美智子さまは『皇太子(現、天皇)とではないのですか?』と驚かれ、少し考えた後『人を信じましょう。それこそが慈愛です。疑うことは人の心を貧しくします。どうしてもするというのなら旧宮家復帰案は難しいですね」と仰いました。ですから美智子さまは旧宮家復帰には難色を示されると思いますよ」
ここで、先のリチャード3世のDNA検査の一件が脳裏をよぎる。思えば温厚な天皇陛下に比して秋篠宮家殿下は幼少時よりヤンチャで知られ、お二人は驚くほと似ていない。先の小内誠一さんは「保守派は男系の血統が大切だと主張するのに、遺伝子検査の必要性について問うと『不敬だ』と言い出します。調べられると困ることでもあるのでしょうか…」としばしば言うが、確かに保守こそDNA検査の必要性を主張するべきたろう。
5「聖書事件」の真相は何か?
鈴木菊男東宮大夫の寄稿文は、昭和天皇の在世時に発表されていることから「昭和天皇が激怒した」とうことは事実ではないのだろう。そして「美智子さまが土下座謝罪した」ということもないと考えるのが自然だ。また、1961(昭和36)年に橋本明氏に聖書事件を語った村井長正侍従も、1965(昭和40)年の退職時に次のように表現を改めている。「昭和天皇だが、それほどお怒りになったのではない。自分もお叱りをこうむってはいない。
宇佐美長官からは『あんまり、やるな」とたしなめられたが。三谷侍従長は怒らなかった。但し三谷さんは『こじれたら私は辞める』と言われた。侍従長が辞めるなら自分も辞職する気持ちになった。辞めようと決意したのは美智子妃に災難がふりかかるのを防げなかったからだ」(橋本明川美智子さまの恋文』新潮社、2007)
だが聖書事件そのものは否定されていない。すなわち「聖書事件」の真偽問題が散々騒がれながらも、肝心の「義宮と共に美智子さまが聖書に親しまれていた」という点は誰も否定しないのであるよって「聖書事件」はあったとしか言いようがない。それを昭和天皇が軽く苦言を呈したというのが真相に最も近いのではないか。この問題について元宮内庁職員の小内誠一さんは「美智子さまは会合などで賛美歌を歌われています。クリスチャンの信仰を捨てきれていないのは明白でしょう」と語る。
もちろん現代は宗教対立の時代ではなく、宗教融和の時代だ。秋篠宮家の眞子さまと佳子さまも「CU(国際基督教大学)に通わ、皇室にキリスト教は思いのほか融和し浸透している。昭和天皇の宗教融和に対する寛大さは、今の皇室にしっかりと息づいている。

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