まずはちょっとこの報道についての国民の声を紹介します。
猪熊事件で、不貞公家の密通事件の一番の犠牲となったのは、他でもない後陽成天皇です。自分の部下が自分の女官(側室)と文字通りの乱痴気騒ぎを起こしていたわけですから、ショックも人一倍だったでしょう。ところで、後陽成天皇と聞いて、耳ざとい皆さまならお分かりかもしれませんが、そう、後陽成天皇はいわゆる「皇別摂家」の始祖にあたります。後陽成天皇の第四皇子(1599年生)が近衛家に入って近衛信尋となり、第九皇子(1605年生)が一条家に養子に入って一条昭良となりました。
これは、時期的に猪熊が京都でブイブイ言わせていた時期と重なります…近衛信尋も一条昭良も、記録上は密通のあった女官の子ではなく、後陽成天皇の女御(正妻)の異なっていますが、実際は分かりません。もしかしたら、猪熊事件の主犯・猪熊教利や他の公家連中との不義密通で生まれた子供である可能性もあります。冒頭に「旧宮家のDNA検査が必要ではないか」という問題提起を述べましたが、猪熊事件たけなわのころの伏見宮家(旧宮家の祖先)は事件とは無関係に慎ましく過ごしていたことが記録から明らかに分かっています。
猪熊事件の例を見てみると、むしろ不義密通が起こりやすいのは、慎ましい宮家ではなく、権威の中心たる天皇の周辺とも言えるかもしれませんね。ちなみに、この猪熊事件、元宮内庁職員の小内誠一さんによると、「昭和34年に皇室入りした美智子さまがお妃教育で皇室の歴史を学んだ時に、一番驚き、また興味を示したのがこの猪熊事件だったらしいですね」たそうです。小内さん曰く「源氏物語の時代から、不義密通/色恋沙汰は宮中の雅な文化っていうことなんですよ」とのこと貴重な古い文化が残る日本の皇室ですが、この文化だけは今に継がれないことを期待したいと思います。
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「猪熊事件」の主役となったのは、公家の四辻家に生まれ、勅命により「猪熊」の氏を与えられた公家の猪熊教利でした。猪熊は「天下無双とたたえられるほどの美男子で、教利は天皇近臣の1人として後陽成天皇に仕えていましたが、内侍所御神楽で和琴を奏でたり、天皇主催の和歌会に詠進したりする等、芸道にも通じていたそうです。イケメンで文化レベルの高い様子から、『源氏物語』の光源氏や平安時代の在原業平にもたとえられ、また、当時流行した“傾奇者(かぶきもの)”の精神を汲んだ彼の髪型や帯の結び方は「猪熊様(いのくまよう)」と称され、京都の流行になるほどだったそうです。
確かに、日本の皇室は最低でも1500年は続いていますので、どこかの時代で天皇の側室や皇后がで密通をした可能性も否定できません。実際に、400年前の後陽成天皇の時代に当時の江戸幕府をも揺るがした宮中の大「不義密通」事件が起こっています。事件の名前は、“猪熊事件”。江戸時代初期の朝廷と幕府を震撼させた大事件でした。
しかし、かねてから女癖が悪く、人妻や宮廷に仕える女官にも手を出し「公家衆乱行随一」と称されていました。そして、慶長12年(1607年)2月に、天皇に侍る女官との密通が発覚し、激怒した後陽成天皇から勅勘(天皇からの勘当)を受けます。猪熊は京都から追放処分とされ、大坂に出奔しましたが、ほとぼりが冷めやらぬうちに、直ぐに京へ戻りました。その後も素行は修まらず、仲間の公卿を誘って自邸に女官を招いては、不義密通を重ね続けました。
猪熊の不敬な悪ノリに乗っかった公家は、多くいたそうで、中でも花山院忠長は、天皇の寵愛深い広橋局(大納言広橋兼勝の娘)にぞっこんになり、文通を始め、二人で逢瀬を重ねたといいます。その話を漏れ聞いた猪熊は、これ幸いとかねてから親しかった飛鳥井雅賢をはじめ、言葉巧みに他の公卿・女官をも誘い出し、様々な場所で乱交を重ねることとなりました。天皇に仕える立場の公家や天皇の側室候補の女官たちが大勢で、乱交パーティを開いていたということになるでしょう。
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本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
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